長文を許していただきたい。
拙いブログを誰よりもよく見てくれていた叔父に。
このようなことを書くのを叔父は好まないかも知れない。しかし今まで本音でなかなか話し合えなかったことを、聞きたかったのではないかと思い、ここに伝えたい。
今朝ノリおじさんが亡くなった。畑を貸してくれていた、僕の叔父だ。数年前手術をして腕のリンパを切除したと聞いていたが、その後は普通に仕事をしていたので気にしていなかった。用のあるときには時々連絡もしていた。
今年の8月、ノリおじさんから突然メールが届いた。
「草刈機を修理して古い刈刃も研いておいたので、草刈りをしておいてください。早くしないとあなたの夏休みはすぐに終わってしまいますよ。すぐ秋に!」
いつものニヒルな叱咤だった。本気が伝わってこない僕の農業への不満だろうと思い、当たり障りのない詰まらないメールを返した。
「ありがとうございます。もう完全にお盆は過ぎていますね。がんばります」
叔父からメールが来るのは珍しく、体調が優れない話は聞いていたので、それもあるのかなくらいに思っていた。
その後、畑がてら叔父の家に寄ることもできたが、僕はそれを憚っていた。体調不良の噂を頻繁に耳にするようになったからだった。病の姿を目の当たりにするのが訳もなく怖かった。逆にフマールパパは叔父の手伝いに頻繁に顔を出すようになっていた。
稲刈りを迎える頃には、叔父の体調の悪さは近所のヒデじいさんからも聞くほどになっていた。本人ではまったく農作業は出来ないという。
叔父が気に掛けていた米の収穫も終わり、フマールパパが車に乗せて大きな病院へ連れて行くと、即入院の状態だった。
僕が見舞いに尋ねたとき、そこには変わり果てたノリおじさんの姿があった。最初それが叔父だと気付かなかった。あの力強い肉体はどこもなく、皮膚は頬骨に貼り付き、何より覇気のある野太い声が細い囁きに変わっていた。
それでも会話の内容は相変わらずで、僕への叱咤だった。ノリおじさんとの関係はいつもこうだった。照れもあったのだろうか。自分と気質の似た近親へのもどかしさ、あるいは少しばかりの可愛さを感じていてくれたのだろうか。
畑を始めて2年目の秋にノリおじさんと揉めたことがあった。草ぼうぼうの畑を見かねて、返せと言ってきたのだ。その時は、ただ草を刈らないだけでどうしてそんなに言われなければならないのか分からなかった。おじさんは言った、「お前は圃場(ほじょう)という言葉を知らないのか?」と。僕はそれを「保壌」だと勘違いした。畑は放って置けばすぐに藪になる。先祖から脈々と継いできた耕地を、僕の遊びのために駄目にする訳にはいかないというのだった。
もちろん僕には畑を潰す気などさらさらなく、むしろ良い土を作っているくらいに思っていた。そして周囲の目を気にするそういった田舎の精神に反発心すら抱いた。
結局土手の草を刈ることで納得してもらい、内はぼうぼうでも辛うじて体裁を整えることになった。
葬儀の朝、僕は4時に目が覚めてずっと考え事をしていた。それは叔父の最後のメールのことだった。
約束してからは定期的に草を刈っていたので、一度も注意を受けたことはなかった。今夏もそれは同じはずだった。だとすれば叔父の趣旨は後半にあるのだろう。
「早くしないとあなたの夏休みはすぐにおわってしまいますよ。すぐ秋に!」
叱咤としか思わなかった言葉に、今になって激励がこもっていることを知った。
叔父は僕に何がやりたいのか分からないと言いながらも、畑を貸しつづけた。「時代がお前に振り向いてくることがあるかも知れない」と、近所の酪農家が晩年になって評価された例を話してくれたりした。どこかで楽しみに思ってくれていたはずだった。
告別式の挨拶を聞いて、叔父がすでに3年前から病と闘っていたことを知った。分析家の叔父ならば自分の死期は察していたに違いない。
畑では淡々と、しかし一つの大きな変化が始まっていた。
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